生前「もしもの時には散骨をお願いね」と強く頼まれておりましたが、母が亡くなった時には
まだみぃちゃんは産まれておらず、こっちゃんは4歳、姪っ子も7歳でした。
その為「もう少し子供達が大きくなって、散骨の意味が分かってからにしようか」と妹と話し
姪っ子とこっちゃんが、卒業式を迎えるこの春に散骨を行う事にしました。
象の鼻パークで
妹と待ち合わせです。
本当に早いもので、この春高校に進学する姪っ子ですが
こっちゃん&みぃちゃんの追いかけっこに、仲良く付きあってくれてましたね
いよいよ
出航です。
船から望む
景色を眺めながら、母の事を想い出しておりました。
「毎日忙しくて病気になんてなってられないよ~」と、いつも元気に笑っていた母。
物ごころついた時から、朝から晩まで一生懸命働いてくれていた事は覚えておりますが
確かに通院どころか、風邪にかかった姿もほとんど記憶にありません。
そんな元気な母もあと少しで定年を迎える事となり、「定年後は一緒に住もうか?」と尋ねたところ
「実は有難いことに、定年後も勤めて欲しいって言ってもらったの」
「だから気持ちは有難いけど、まだまだ独りで大丈夫よ心配しないでね」との事でした。
話によると花好きな母は誰に頼まれるでもなく、許可を貰い休憩時間を利用しながら
何年もの間、勤務先のゴルフ場の広場で花を育てていたそうです。
その花壇はゴルフ場関係者だけでなく、お客さんからも評判だったそうで
支配人さんから「是非、定年後も勤めて欲しい」と頼まれたとの事でした。
「ただ花が好きで育てていただけなのにね、本当びっくりしちゃった」
「花が綺麗だと聞いて、ずっと行きたかった北海道や五島列島に行きたいねと友達と話してて」と
嬉しそうにこれから先の事を、色々と話してくれました。
しかしその数ヶ月後、母から
「健康診断で肺に影があるから、大きな病院で診てもらいなさいと言われたんだけど・・・」
「本当に悪いけど、付き添いを頼めないかな・・・」
普段の元気な母からは想像出来ないような、今にも消え入りそうな声が
電話の先から聞こえてきました。
数日後、病院へと向かう際には
「大丈夫。毎年健康診断受けてるんだから」
「病院の帰りには、何~だ!全く心配させて~と笑ってる事になるよ」
と少しぎこちなくもありますが、お互い笑い合ったのですが・・・
病院に着いてからは全くの無言になり、時折待合室の時計に目をやりながらとても長く
そしてなんとも言えない、胃の痛くなる刻を過ごしました。
そして遂に名前を呼ばれ先生と対面すると、実にあっさりと
「肺ガンで、既にステージ4です」
「5百円玉位ある大きなガンで、リンパに近いので他にも転移しいてる恐れがあります」
と告げられました。
えっ!何だ?ドラマとかだとガンの告知は、親族だけ別室に呼ばれたりしてるよな?
最近は告知するようになってきてるとは聞いてもいたが、いきなり本人も居るのに告知するのか?
「肺ガン?」「ステージ4?」「リンパに転移?」それって、もの凄くマズイんじゃないのか?
心の片隅でもしもの事を考えてはいたものの、一瞬にして頭が真っ白になり言葉を失いましたが
すぐ隣りでグッとハンカチを手に握りしめ、強張った表情を浮かべる母の姿に気を取り直し・・・
「何かの間違いの可能性は?」「もしガンだとしたら、今後どのようにしたら良いですか?」と
矢継ぎ早に様々な質問を投げかけた後、母とどんぐりママと3人で病院をあとにしました。
帰るみちすがら、今までずっと押し黙っていた母が
「今まで生きてこれて、孫もみれたし十分に幸せだったよ」
「病気だもん。こればかりはしょうがないよね」
と私たちを気遣ってか明るく笑いながら話しだすので・・・
「変な事言い出すなよ。ガンじゃないかもしれないじゃん。これから他の病院もまわろう」
「もしそうだとしても、治療すればいいんだからそんな諦めた事は言うなよ」との
私の言葉に、母はただ黙って静かに頷いてました。
それからは本当に、毎日がジェットコースターな日々で・・・
他の病院も駆けまわって、新しく紹介された病院に近いとの事で母は妹の家へと引っ越す事になり
そして「病気を治してまた復帰したい。今皆を前に挨拶なんて辛くてとても・・・」との事なので
私が代わりに職場へ挨拶に伺うことにしました。
すると応対して頂いた支配人さんから、「何時までも待ってますからと伝えて下さい」と言って頂き
他の方々からも沢山の励ましの言葉を頂いて、「あぁー母はこんなにも頑張っていたんだ」
「何とかもう一度、復帰させてあげたいな」と改めて思いましたね。
入院中の母を見舞った帰り道は、いつも遠くに浮かぶ島を眺め
公園で楽しそうに遊んでいる、子供達の声を遠くに聞きながら
「この先どうなるんだろう? どうしたらいい? 何をしてあげられる?」と独り呟いてましたね。
その後、幸いにも大手術が無事に成功し、こうして
北海道旅行を楽しむまで回復しておりましたが、翌年に体中への転移が発覚いたしました。
初めて告知された時は「もうこればかりはしょうがないね」と笑って私達を気遣っていた母でしたが
「先ずは産まれてくるみぃちゃんに会わないとね。こっちゃんのランドセル姿も楽しみにしてるの」
「姪っ子の成人式だけじゃなくて、欲張ってウェディング姿も見たいから(笑)頑張らなくちゃね」
と言いながら治療を続けてましたが、遂に先生から
「一言も愚痴もこぼさず辛い治療をずっと我慢して、いつも本当に頭の下がる思いです」
「しかし全身に・・・骨にまで転移がみられ・・・この状況でこれ以上は・・・」
「この先の投薬は更に辛いし、体を痛めつけるだけの恐れもありますそれならば・・・」
横で聞いてる私にも先生が言わんとする事が良く伝わってきましたが
果たして何と言ったら良いのか?どうしたら良いのか?迷っていると・・・
「今治療を止めてしまったら・・・もう可能性が0になっちゃいますよね?」
「それではあんまりなので、治療を続けたいです」
と母が泣きながら先生に懇願しだしました。
今まで告知された時も治療中にも、決して涙をみせた事がなかった母の涙を前にして
私も先生に「すみませんが本人が望むように、宜しくお願い致します」と
伝えるしかありませんでした。
その後暫くの間は、余命があと僅かなのが嘘みたいに元気だったのですが
「食べ物の匂いがどれもガソリンみたいな匂いに感じて」と言うようになり・・・
食べ物をほどんど受け付けなくなって、みるみるうちに痩せてしまい
あんなに楽しみにしていた、みぃちゃんが産まれる2ヶ月前に母は息を引き取りました。
死は誰にでも訪れるものでありそれは母も例外ではないのですが、でもせめてもう少しだけ・・・
定年後にはこんな事やあんな事もしてみたいな~と話したり、孫たちの成長する姿を
あんなにも楽しみにしていたのに、それにしたってあまりにも早すぎるじゃないか!との想い。
そして、ただただ母への感謝の想いが
見送りの時を迎え、こみ上げてきました。
昔の方はよく言ったもので、本当に「孝行したい時に親はなし」ですよね。
冒頭でも書きましたが、健康自慢の母だったので本人もですが私も病気にかかるなんて
ましてやこんなにも早く、その時が来るなんて全く思ってもみませんでした。
ある時、私としては何気なくだったのですが、子供の頃の事や父の事を色々と聞こうとしたのですが
「何だかもう聞けないみたいじゃない」「あわてなくても、まだ大丈夫よ~」と母に笑われた瞬間に
ハッと気づき迂闊だった、そんなつもりは無かったが母を傷つけてしまった・・・
今更だが病気になる前に、もっと色々な話を聞けば良かった。と強く後悔しました。
そんな今まで自分の中に抱き続けていた想いや、当時闘病されてる方やご家族の想いが
切々と綴られたブログを拝読し共感させて頂いた事を思い出し始めたら
いつも以上に長々と書き綴ってしまいましたね。
他でも書きましたが、私なんて近所でも有名なあばれはっちゃくで、散々母に心配や迷惑を掛け
大人になったって「うんうん。大丈夫。分かってるって」と、話をろくすっぽ聞かないような
息子だったので、とても偉そうな事を言える立場ではないのですが・・・
この記事を読まれて「そうか。こんな話もあるんだな」「たまには親とも話してみるか」
そんなキッカケのひとつになれたらな~なんて事も、勝手ながら思ったりしました。
最後にこれもまた以前にも書きましたが、ワンピースのヒルルクの言葉
「やめておけ お前らにゃおれは殺せねェよ 人はいつ死ぬと思う・・?」
「心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う」
「不治の病に侵された時・・・違う」
「猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・違う!!」
「・・・人に忘れられた時さ」
との言葉がすごく自分の心に響き残っているので、もっと娘達に母の事を
伝えてあげていこうと思いますし、今後も機会があったらですが
母との想い出についても書き残せたらと思っております。
おわり
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